その104 「竹渓」って何人居るんだ!? 2025.4.20
いや~、参った!参った!
竹渓(ちっけい)と
ヤッホー!!
と、即座に購入!
数日後、届いた本をワクワクしながら開けてみたが、・・・ どうも、違和感がある。
年代が合わないのだ。
昭和初期に刊行されているのだが、そんな筈はない。
精々、明治中期までだ。
調べてみると・・・
竹渓は複数居たのだ。
勘弁してよ~
でも、考えてみたら、竹渓はこの世に一人しかいないと思い込んでいた自分が浅墓だったのだ。
私の探していたのは、
江戸末期の漢詩人で、名は典、
唯一の書籍『竹渓先生遺稿』が残っている。
此れがよく解らないのだが、永井荷風は『下谷叢話』の中で『竹渓遺稿』として「先生」が付いていない。
ところが現存している書籍は『竹渓先生遺稿』なのだ。別物なのだろうか?不明である。但し、編者は大沼沈山で同じ。
これが読みたかったと言うか、原本を確認したかった。
という訳で、「竹渓」って、
結果、なんと、竹渓は六人も居た!
それも!
同姓同名の大沼竹渓が、二人も居た!
更に、『竹渓遺稿』または『竹渓先生遺稿』は五種類あったのだ。
そりゃ、間違えるだろ!!
勘弁してよ~
なぜ、この記事を書いたかと言うと、永井荷風・著『下谷叢話』を読んだ方に、同じ過ちを繰り返して欲しくないから(苦笑)
以下、ご興味のある方だけお読み下さい。
【各「竹渓」の略歴】
〇一人目。大沼竹渓こと大沼典。
大沼 典(おおぬま - )
名の「典」の読み方は、おそらく「てん」ではないかないか、と思われるが不明。
生没:宝暦12年(1762年)~文政10年(1827)年、65歳没。
出身地:尾張国(現:愛知県)丹羽郡。
鷲津幽林の長男として生まれたが、のちに幕府御広敷添番衆・大沼又吉の養嗣になった。
名:典。字:伯経。通称:次右衛門。号:竹渓
家族:長男は、江戸末期の漢詩人で有名な、
著書:『竹溪先生遺稿』 編集:大沼枕山。
〇二人目。大沼竹渓こと大沼吉平。
大沼 吉平(おおぬま きっぺい)
生没:明治9年(1876年)~昭和10年(1827)年、66歳没。
出身地:静岡県田方郡三島町。
名:吉平。号:竹渓
第六代、伊豆銀行頭取。漢詩を嗜んだ。なお伊豆銀行は昭和18年6月に、静岡銀行に吸収合併された。
家族:長女・大沼綾子。
著書:『竹渓遺稿』 編集:「佩韋」こと加藤知碩 大沼綾子が昭和14年に刊行。
〇三人目。元田竹渓こと元田彝。
元田 彝(もとだ ‐ )
名の「彝」の読み方は、「つね」か「のり」ではないかないか、と思われるが不明。
生没:寛政12年11月4日(1800年)~明治13年12月30日(1880年)、81歳没。
出身地:豊後(現:大分県)。
名:彝。字:伯倫。通称:百平。
江戸後期~明治時代の儒者。
幕長戦争に反対して処分され、維新後に復職した。
「
著書:『攘夷私論』『竹渓先生遺稿』
〇四人目。沼田竹渓こと沼田郁太郎。
沼田郁太郎(ぬまた いくたろう)
生没:文化11年(1814年)~明治9年11月22日(1876年)、62歳病没。
出身地:安芸(現:広島県)三原新町。
名:?。字:好石。通称:郁太郎。号:竹渓、桂園。
幕末から明治大正の儒者。
著書:『竹渓遺稿』
〇五人目。三浦竹渓こと三浦義質。
三浦義質(みうら よしただ)
出身地:江戸(現:東京都)。
生没:元禄2年(1689年)~宝暦6年5月(1756年)、68歳没
名:良能。字:子彬。通称:平太夫。号:竹渓
江戸中期の儒者。
柳沢吉保につかえ、荻生徂徠に師事。のち遠江(静岡県)浜松藩主松平信祝につかえ、その世子信復の師となった。
著書:『明律口伝』
〇六人目。竹渓こと野春。
野春は名なのか、姓なのか通称なのか、読み方も不明。出身地、生没不明。
字:泰和 号:竹渓
京師の人。詩を原雲渓に学ぶ。
著書:『竹溪遺稿』
なお、:『竹溪遺稿』は単独で発行されていない。
竹渓の師・原龍鱗(雲渓)の詩賦を野春が編集したものが『
これに自分の詩賦『竹渓遺稿』を付録して刊行した。
3巻+附録1巻。内訳は「巻之上」「巻之中」「巻之下」の3巻、 附録「竹渓遺稿」の1巻。
享保21年(1736年)刊行。
【語彙説明】
〇 号(ごう) ・・・ かつては文士が書画を創作発表する際に使用された。
現在では主にペンネームや筆名と呼ばれ、俳句や日本画などの分野を除いては「号」の呼び方はあまり使用されなくなった。
歴史上初めて号を用いた人物は、チャイナ北宋の欧陽脩とされる。「六一居士」と号した。
それ以降、名だたる文人がこれに倣い、例えば、蘇軾は「蘇東坡」別号「東坡居士」と称した。
創作活動に本名とは別の称号を使用する習慣は日本にも輸入され、現在に至るまで継続している。
文人達が好んで号に用いた字句に、「道人、散人、山人、野人、居士、逸士、処士、隠士、迂士、逸民、外史、仙史、樵客、山樵、漁夫、漁叟」などが挙げられる。
いずれも文人らしく隠逸志向がみられる。
また居宅や書斎(文房)の名をそのまま号とすることも多く、たとえば蘇東坡は雪堂、米芾は宝晋斎、趙孟頫は松雪斎、日本でも池大雅の大雅堂、木村巽斎の蒹葭堂などがある。
このような号は「 – 堂、 – 斎(齋)、 – 室、 – 館、 – 閣」などの語が附随するので、堂号(堂名)、斎号(斎名)、室号(室名)などと呼ばれる。
チャイナ明の文人である文徴明は「我が書屋は多く印上に起造す」と述べているように必ずしも実在の居宅や書斎ということではなかった。